見事に3年寝太郎。久しぶりの書き込みです。
一昨年から議員となり、1年目は長く感じたが、2年目の昨年はなんだかあっという間に過ぎ去ってしまった。
一つ一つを大切にしたいと思いながらも、日々をこなすことで精いっぱい。
時間が伸び縮みするようだ。
この町に山積・噴出するさまざまな問題の根本には何があるのかと、点ちゃんでなく線ちゃんタイプの私は(点ちゃんと線ちゃん※)
平成の大合併からかなぁと、いつもそこへ戻ります。
私の住む木頭地区だけでも、平成よりも昭和の大合併の名残があるのに(旧7大字が集まって木頭村になったがまだ大字単位の感覚が多数)、
5か町村が合併した平成の大合併って、、、どうやったら一つになれるんだ?
いまだにみなさん「那賀町民」という気持ちは持ちづらいんではなかろうか・・・
という仮説を見事に正解としてくれるような出来事が昨年はいくつもありました。
大学生や高校生と1つの町を捉えようとする活動をしていますが、なかなかこれが難しい。どうやってやるんだ。
そもそも、町は一つと思わないといけないということもあるのかどうか。そこから考える必要もある。
でも、郷土愛、とか、地域への愛着、みたいなものは、じゃあどこから湧いてくるんだろう?
「我々の死者と未来の他者」社会学者の大澤真幸先生が書かれた本に出合い、年始にようやく読むことができたんですが、
衝撃的過ぎて鬱になりかけてしまいました…
終盤の、村上春樹著「ねじまき鳥のクロニクル」からのノモンハン事件の抜粋の目を覆いたくなるような描写も衝撃的でしたがそこではなく(原著を読んだ時にもそれが強烈すぎて読み進められなかった記憶あるがそれはさておき)、
戦前~戦後にかけて我々は我々の死者を失ったが、それを回復することもまたそのまましてはいけない、回復と同時に棄却もせねばならない、この矛盾にどう向き合い解決するのか、
これを解決しなければ、未来の他者へ応答することができない。
という命題があまりに突き刺さりすぎてしまい。
そうか、だから私はさまよっているんだ!
我々の他者の存在を、私は確かに山の民に、宮本常一に、民俗学に、あるいは徳山村に、姫野忠義の映像に、見ている。
でもそのまま受け継ぐということではない。
しかしながらこの命題が明示されたことで(大澤真幸先生はもっと広く深いことについて明示しているのだけれども)、
私はひとつ自分の位置を確認することができたのでした。
未来を描くためには、過去を見つめなければならない。
見つめて、取るべき行動をとらねばならない。
人の目を気にしているようなくらいでは、何もできない。
呼応しようとしている自らの魂さえも青みどろと化する。
Sentiment without action is ruin of your soul.
2025年の年頭にふさわしいブログとなった、かな?
一昨年から議員となり、1年目は長く感じたが、2年目の昨年はなんだかあっという間に過ぎ去ってしまった。
一つ一つを大切にしたいと思いながらも、日々をこなすことで精いっぱい。
時間が伸び縮みするようだ。
この町に山積・噴出するさまざまな問題の根本には何があるのかと、点ちゃんでなく線ちゃんタイプの私は(点ちゃんと線ちゃん※)
平成の大合併からかなぁと、いつもそこへ戻ります。
私の住む木頭地区だけでも、平成よりも昭和の大合併の名残があるのに(旧7大字が集まって木頭村になったがまだ大字単位の感覚が多数)、
5か町村が合併した平成の大合併って、、、どうやったら一つになれるんだ?
いまだにみなさん「那賀町民」という気持ちは持ちづらいんではなかろうか・・・
という仮説を見事に正解としてくれるような出来事が昨年はいくつもありました。
大学生や高校生と1つの町を捉えようとする活動をしていますが、なかなかこれが難しい。どうやってやるんだ。
そもそも、町は一つと思わないといけないということもあるのかどうか。そこから考える必要もある。
でも、郷土愛、とか、地域への愛着、みたいなものは、じゃあどこから湧いてくるんだろう?
「我々の死者と未来の他者」社会学者の大澤真幸先生が書かれた本に出合い、年始にようやく読むことができたんですが、
衝撃的過ぎて鬱になりかけてしまいました…
終盤の、村上春樹著「ねじまき鳥のクロニクル」からのノモンハン事件の抜粋の目を覆いたくなるような描写も衝撃的でしたがそこではなく(原著を読んだ時にもそれが強烈すぎて読み進められなかった記憶あるがそれはさておき)、
戦前~戦後にかけて我々は我々の死者を失ったが、それを回復することもまたそのまましてはいけない、回復と同時に棄却もせねばならない、この矛盾にどう向き合い解決するのか、
これを解決しなければ、未来の他者へ応答することができない。
という命題があまりに突き刺さりすぎてしまい。
そうか、だから私はさまよっているんだ!
我々の他者の存在を、私は確かに山の民に、宮本常一に、民俗学に、あるいは徳山村に、姫野忠義の映像に、見ている。
でもそのまま受け継ぐということではない。
しかしながらこの命題が明示されたことで(大澤真幸先生はもっと広く深いことについて明示しているのだけれども)、
私はひとつ自分の位置を確認することができたのでした。
未来を描くためには、過去を見つめなければならない。
見つめて、取るべき行動をとらねばならない。
人の目を気にしているようなくらいでは、何もできない。
呼応しようとしている自らの魂さえも青みどろと化する。
Sentiment without action is ruin of your soul.
2025年の年頭にふさわしいブログとなった、かな?