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On vit joliment.

元店主しげぞーのブログ
​「オンヴィジョリモン(よく生きる)」

「我々の死者と未来の他者」を読んで

16/1/2025

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見事に3年寝太郎。久しぶりの書き込みです。

一昨年から議員となり、1年目は長く感じたが、2年目の昨年はなんだかあっという間に過ぎ去ってしまった。
一つ一つを大切にしたいと思いながらも、日々をこなすことで精いっぱい。
時間が伸び縮みするようだ。

この町に山積・噴出するさまざまな問題の根本には何があるのかと、点ちゃんでなく線ちゃんタイプの私は(点ちゃんと線ちゃん※)
平成の大合併からかなぁと、いつもそこへ戻ります。

私の住む木頭地区だけでも、平成よりも昭和の大合併の名残があるのに(旧7大字が集まって木頭村になったがまだ大字単位の感覚が多数)、
5か町村が合併した平成の大合併って、、、どうやったら一つになれるんだ?
いまだにみなさん「那賀町民」という気持ちは持ちづらいんではなかろうか・・・

という仮説を見事に正解としてくれるような出来事が昨年はいくつもありました。

大学生や高校生と1つの町を捉えようとする活動をしていますが、なかなかこれが難しい。どうやってやるんだ。
そもそも、町は一つと思わないといけないということもあるのかどうか。そこから考える必要もある。
でも、郷土愛、とか、地域への愛着、みたいなものは、じゃあどこから湧いてくるんだろう?

「我々の死者と未来の他者」社会学者の大澤真幸先生が書かれた本に出合い、年始にようやく読むことができたんですが、
衝撃的過ぎて鬱になりかけてしまいました…

終盤の、村上春樹著「ねじまき鳥のクロニクル」からのノモンハン事件の抜粋の目を覆いたくなるような描写も衝撃的でしたがそこではなく(原著を読んだ時にもそれが強烈すぎて読み進められなかった記憶あるがそれはさておき)、

戦前~戦後にかけて我々は我々の死者を失ったが、それを回復することもまたそのまましてはいけない、回復と同時に棄却もせねばならない、この矛盾にどう向き合い解決するのか、
これを解決しなければ、未来の他者へ応答することができない。

という命題があまりに突き刺さりすぎてしまい。
そうか、だから私はさまよっているんだ!
我々の他者の存在を、私は確かに山の民に、宮本常一に、民俗学に、あるいは徳山村に、姫野忠義の映像に、見ている。
でもそのまま受け継ぐということではない。

しかしながらこの命題が明示されたことで(大澤真幸先生はもっと広く深いことについて明示しているのだけれども)、
私はひとつ自分の位置を確認することができたのでした。

未来を描くためには、過去を見つめなければならない。
見つめて、取るべき行動をとらねばならない。
人の目を気にしているようなくらいでは、何もできない。
呼応しようとしている自らの魂さえも青みどろと化する。
​
Sentiment without action is ruin of your soul.
2025年の年頭にふさわしいブログとなった、かな?
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山で暮らすということ

16/4/2021

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先日久しぶりに里から離れた集落を訪ねてお話を聞く機会に恵まれた。
国道から谷を入って車でそろそろを上がっていくこと15分。こんな上にも人が住んでいるの?!と失礼ながら思わざるを得ないくらい山の中だった。空き家もある中、3世帯が身を寄せ合いながら暮らす。

そのうちの一番上の1軒にお邪魔してみた。こんにちはーと声をかけるが反応がない。軽トラが停まっているのできっとご在宅ではあろう。
それまで来たさみしい道のりからは想像がつかないくらい、彩り豊かな暮らしぶりがうかがえる。池には丸々と太った金魚と錦鯉。ボタン桜が満開で、建屋もたくさんあり、長い年月を経て暮らしが引き継がれてきたことが垣間見える。

しばらくすると納屋のガラス戸の向こうにおばあさんがおられるのがわかった。改めてこんにちはとごあいさつすると、とてもびっくりされたようで、目を大きく見開いてこちらを見ておられる。

協力隊のしげです、イタドリを求めて谷に入ってきてここまで来てしまいました、と申し上げると、あ~あの通信の!と、回覧板に挟み込んでいる協力隊活動報告の通信を読んでいただいているようだ。素直にうれしい。

色んなお話をお聞きした。
水のこと、仕事のこと、ご家族のこと。畑のこと。
突然に訪ねられたから、何も準備しておらず散らかっていて申し訳ないと何度も謝られる。こちらこそ申し訳ない。

庵があったので、おまつりされているのはどなたですか?と尋ねたらお地蔵さまとお大師さんと庚申さん、ということで、よかったらお参りさせていただけますか?とお願いした。快くご案内してくださり、庵の中でもひとしきりおしゃべりをした。

お孫さんを預かっていたときは、苦労がないわけではないが、こんな山の中でも毎日にぎやかで本当に楽しかったと、本当に楽しそうにお話してくださった。お孫さんもまた木頭に来たいと。山の中で大声で誰のことも気にせず歌を歌うのが好きだった。山が恋しい、街の中では大きな声で歌うこともままならない、夏にコロナが落ち着いたら行くからね。
聞いていて、感動せずにおれなかった。
このお話の中にたくさんのヒントが詰まっている、それは何だろう?なにだろう?曇りなき心の耳で聞きもらさないようにしなきゃ・・・と心の中でつぶやいていた。

山の中にあるこの暮らしが、また自然に淡々とつながっていくには、何がいるのだろうか。このままではなくなってしまうに違いない。でもそんなにやすやすとなくならせて良いはずがない。人の暮らしにも多様性があって当然だ。多様な暮らしは、生物多様性や遺伝子の多様性にみられる生存戦略に必ずつながる。人が生き残っていくには必要なことである。また人間の尊厳としても、守られねばらならない。人は生きたいところで生をまっとうする生まれながらにして備わった権利がある。

でもこのままでは、失われていくだけだ。

どうしたらいいのか。

久しぶりに胸が熱くなった。
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結局のところ、自己決定力をどれだけ持てるか

25/1/2021

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地方(都市部でないところ)で生活を営むことがこれからの社会時代では強いと、私は考えている。

地方には長年無数の人たちが繰り返してきて確認された、淘汰圧に耐えた暮らしの知恵がある。さまざまな自然条件のなか何度も何度も試され「これなら大丈夫」と判断されてきた知恵は連綿と受け継がれ今に残る。それらは、決して時代遅れと呼ばれ捨て置かれるものではない。これらは地域の気候風土に即して最大限快適に生きられるように開発されてきた方法の結晶なのだと思う。それが、あちこちに、息も絶え絶えながら、まだ今なら残っている。

近年の数十年の一時的な通貨の好況とそれに伴う国際政治的な事情で日本は世界の先進国の仲間に加わっているが、短絡的・近視眼的・拝金的な現在の政治経済ではそれもいつまで続くかわからない。お金の世界が暮らしのすみずみにまで行きわたり、お金があればほとんどのことを実現できる時代となったものの、それは相対的なものであり、また人為的・恣意的なものであるということを忘れてはならないと思う。

お金は本来単なる道具である。人類きっての発明品だ。
活動を生み出し、成果物の取引を促し交換させることで、全体の富の総和は増える。お金は人間世界をより豊かにする。
お金があればものごとを実現できるということは、大変魅力的なことである。

ただ、お金の価値は市場によって決まる。
​そして市場は、人の気持ちというたいへん不確かで不安定なものによって左右される。
また、権力と結びつきやすい。

お金による自己決定力や自己実現力には、限界がある!

人は、お金そのものがほしいのではない。お金で自分の望むことを実現できるからこそ、お金がほしいのだ。お金の「価値変換」の機能がほしいのだ。あるいは「価値貯蔵」の機能でもよい。価値を貯蔵することができると、自分の好きな時に好きなものへ価値を変換することができる。
でもどれも、自分自身で決定し、実現することである。
結局のところ、人がほしいのは、自己決定力と自己実現力だ。

田舎で生きるということには、それがある、と私は思う。

(2へ続く)
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食べられるようになるまでの時間

15/1/2021

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何か食材があって、食べられるようになるまでは、本当はとても時間がかかる。
野菜には土がつき枯葉もありそれらを取らねばまな板にも載せられないし、肉も骨から外して調理できるサイズに切り分けないと鍋にすら入らない。米は稲穂から外して殻を剥きぬかを落としてあるからすぐに炊ける。
そば粉が粉になるまでも実は長い長いプロセスがある。もちろん麺になるまでも長い時間かかるのだけど。

買ってくるときは、それは他の誰かがすでにしてくれていて、食べられるようにするまでの時間はかからない。つまりその分の時間をお金という形で支払っている。
それを付加価値と呼んだりもする。
そうして分業化されたら効率は上がり確かにひとつひとつに食材に対してかかる手間と時間は、多少は減る。
でも、ゼロにはならない。
そしてそれは何かや誰かのエネルギーが使われていることには変わりない。

自分で食料を得て、それを食べられるように加工するということをし始めたらすぐにぶちあたるのが、この食べられるようにするまでとても時間がかかるという事実だ。
意外と気が付かない。
でも、もがきながらも色々な食材を食べられるように加工をしていると、ある時ふと気が付く。

生きるということは、食べることなんだと。

実はこれまでの社会の発展は、食材を食べられるようにすることをいかに効率よく省力化してきたかということにいきつくように思う。
その結果、私たちは大事なものを忘れたり置いてきてしまったりしてないだろうか。

食べることが生活の中心となるような社会は、どんな社会だろう。
いろいろと妄想を膨らましてみたい。
なんかきっと豊かな世界なんではないかなと思うんだけど、どうだろう。

(写真:自家製鹿ハムのスモーク、紅芯大根と三つ葉を添えて)

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ブログのタイトル「よく生きる」について

8/1/2021

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新しい年になり、新しいことを始めるのにはぴったり。
前々からSNSではない場で継続的に書ける場を作りたいと思いながらできなかったのでこれを機に作ってみる。
さていつまで続くかな。後先は考えずにまずやってみよう。

ブログのタイトルを何にするかを考えて上記のようにした。

もともとさらざん時代に鉄板やトンボなどを作る際、新しいブランドとして「C'est jolie.(セジョリ)」を立ち上げた。といっても大げさで、単にこれらのシリーズを、それまでの飲食物や菓子類と分けたシリーズにしたかっただけだ。
ガレットは「SOBACaféさらざん」、そば菓子類は「SOBA菓子工房さらざん」、そして道具類は「C'est jolie.」
C'est jolie.のガレット道具類のあとには、ガレットを載せるお皿、一緒に飲むコーヒーのマグカップ、ナイフフォークやお箸、テーブルウエア、家具、、、と暮らしのいろいろな雑貨類へと広げたかった。けどそれも途中で頓挫してしまったまま。

どれもこれも、中途半端だ(涙)
いや、今はまだ取り組みの途中ということだと自分だけは思っていたりする^^

C'est jolie.に込めた思いは、実は深い。
第1子を出産して育児する中で次第に事業を進められなくなって一度目の挫折を迎え、そこから立ち直ろうとしたときに、思い至ったのがこれ。
誰が言ってくれるでもなく、自分の人生に「ステキだね」と自分自身で言うことの難しさと大切さを噛みしめた。

フランスのブルターニュで出会った一場面で聴こえてきたセリフがこれだった。ある夫婦が自分たちで手入れした庭を眺めて、自分たちの仕事を客観的に評価していた。うぬぼれることなく良くないところはきちんと指摘して、良いところもきちんとほめる。
だって一所懸命したんだもの。自分でちゃんと認めてあげなきゃね。

さて、このブログのタイトル。
日本語では「よく生きる」という意味にしたかった。フランス語ド素人の私はgoogle翻訳でひいてみて、そしてかねてからのC'est jolie.にも絡ませたかった。もしかして間違っているかも。それでもま、いいや。通してしまえばいつの間にか正しくなっていたりするのだ。この辺の雑さというか強引さが実は外国のものを取り込む日本の得意のお家芸だったりしてね。

できるだけ長く続けられるといいなと、そんなに気負いせずにゆるゆる思いつつ、初めの投稿とします^^
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    さらざん元店主。

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    4月 2021
    1月 2021

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