何か食材があって、食べられるようになるまでは、本当はとても時間がかかる。
野菜には土がつき枯葉もありそれらを取らねばまな板にも載せられないし、肉も骨から外して調理できるサイズに切り分けないと鍋にすら入らない。米は稲穂から外して殻を剥きぬかを落としてあるからすぐに炊ける。
そば粉が粉になるまでも実は長い長いプロセスがある。もちろん麺になるまでも長い時間かかるのだけど。
買ってくるときは、それは他の誰かがすでにしてくれていて、食べられるようにするまでの時間はかからない。つまりその分の時間をお金という形で支払っている。
それを付加価値と呼んだりもする。
そうして分業化されたら効率は上がり確かにひとつひとつに食材に対してかかる手間と時間は、多少は減る。
でも、ゼロにはならない。
そしてそれは何かや誰かのエネルギーが使われていることには変わりない。
自分で食料を得て、それを食べられるように加工するということをし始めたらすぐにぶちあたるのが、この食べられるようにするまでとても時間がかかるという事実だ。
意外と気が付かない。
でも、もがきながらも色々な食材を食べられるように加工をしていると、ある時ふと気が付く。
生きるということは、食べることなんだと。
実はこれまでの社会の発展は、食材を食べられるようにすることをいかに効率よく省力化してきたかということにいきつくように思う。
その結果、私たちは大事なものを忘れたり置いてきてしまったりしてないだろうか。
食べることが生活の中心となるような社会は、どんな社会だろう。
いろいろと妄想を膨らましてみたい。
なんかきっと豊かな世界なんではないかなと思うんだけど、どうだろう。
(写真:自家製鹿ハムのスモーク、紅芯大根と三つ葉を添えて)
野菜には土がつき枯葉もありそれらを取らねばまな板にも載せられないし、肉も骨から外して調理できるサイズに切り分けないと鍋にすら入らない。米は稲穂から外して殻を剥きぬかを落としてあるからすぐに炊ける。
そば粉が粉になるまでも実は長い長いプロセスがある。もちろん麺になるまでも長い時間かかるのだけど。
買ってくるときは、それは他の誰かがすでにしてくれていて、食べられるようにするまでの時間はかからない。つまりその分の時間をお金という形で支払っている。
それを付加価値と呼んだりもする。
そうして分業化されたら効率は上がり確かにひとつひとつに食材に対してかかる手間と時間は、多少は減る。
でも、ゼロにはならない。
そしてそれは何かや誰かのエネルギーが使われていることには変わりない。
自分で食料を得て、それを食べられるように加工するということをし始めたらすぐにぶちあたるのが、この食べられるようにするまでとても時間がかかるという事実だ。
意外と気が付かない。
でも、もがきながらも色々な食材を食べられるように加工をしていると、ある時ふと気が付く。
生きるということは、食べることなんだと。
実はこれまでの社会の発展は、食材を食べられるようにすることをいかに効率よく省力化してきたかということにいきつくように思う。
その結果、私たちは大事なものを忘れたり置いてきてしまったりしてないだろうか。
食べることが生活の中心となるような社会は、どんな社会だろう。
いろいろと妄想を膨らましてみたい。
なんかきっと豊かな世界なんではないかなと思うんだけど、どうだろう。
(写真:自家製鹿ハムのスモーク、紅芯大根と三つ葉を添えて)