船井本社リレーコラムの2回目の投稿をさせていただきました。
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「そば愛」は、実は、別の愛だった?
私はそばガレットとスイーツの店をしており、日々そば粉やそばの実やそば商品をあつかいます。そのため、「あなたはそばを愛していますね」と言っていただく機会が多くあります。今日はこの「そば愛」について、お話させていただこうと思います。
はたして、私は、そばを愛しているのだろうか。
前回書かせていただきましたお話(「“愛のある対応”とは」)の文脈でいくと、「愛する」というのは「相手のこれからを祈り励ます行動」です。それでは、私はそばを愛しているかというと、これからのそばのあつかわれ方が多方面にわたって拡がり深まることを願って日々動いており、それがきっと大切なことと信じていますので、合致していると言えます。でも、どことなく身勝手な感じもしますよね。もしそばに心があるならば、それってしげぞーさんの勝手なおせっかいよ、と聞こえてきそうです。そばを愛しているのか、その向こうの何かほかのものを愛しているのか。やっぱり私はそばを愛していないのでしょうか?
そばにはまだあまり知られていない魅力があります。それは、ひとつは、世界中で食べられている食材だということです。
そばと聞くと、日本にいるみなさんがすぐ思い浮かべるのが麺の蕎麦です。麺の蕎麦にはおいしさはもちろんのこと、無数の人の手と時間によって積み重ねられてきた歴史や文化があり、奥深くとても魅力的です。でも、一方で世界に目を向けると、麺にして食べる地域はむしろ少なく、焼いたり練ったりする方が多いのです。同じそばという1つの食材に対してのアプローチの違いですが、さまざまなそば食品があるのは、さまざまな土地で育ったそばがそこの風土や文化に合った形で加工され人々に食べられ続けているということです。
私はむしろ、この、多様性に惹かれている?人の暮らしの多様性。その現れとしての、そば。私の愛しているのは、さまざまなそば食品の向こうにある人の暮らしの多様性なのかもしれません。
またそばは別の魅力もあります。そば粉の性質についてです。同じそば粉でも、産地や品種や挽き方でまったく異なった表情を見せます。麺の蕎麦の研究の蓄積は、情熱ある街場の蕎麦屋さんにも学問界にも相当のものがあります。みなさん蕎麦が大好きだから研究熱心なのです。ですが、焼いたそばに関しては見つからない。
そば粉を焼くと、独特の香ばしさが生まれます。野趣あふれる良い香りです。また、ともに出てくるほろ苦さは、あ~また食べたい、という繰り返したくなる要因となるものです。私は、おいしさの素となるこの香ばしさやほろ苦さがどのようにしたら適切に安定して出てくるのかを、日々そばガレットを焼きながら観察してきました。
よく観察すると、傾向が見えてきます。すると仮説が立てられる。仮説が立てば、検証ができます。いつもこうしているとこうなるが、例えばこうするとどう変化するのだろうか。仮説を疑い、出てきた結果を見て、やはり仮説のとおりだった、あるいは違っていた。では次にはこうしてみたら再現できるのだろうか、等々。
この、PDCAサイクルといってもいいような、トライアンドエラーといってもいいような、おいしさを目指して取り組むこの観察と発見の繰り返しが、ワクワクの連続でとてもおもしろいのです。
すると、私は、この観察や発見のプロセスに関心があり、実はたまたまそれがそばだったのかもしれない?探求し、想像し創造すること。私の愛しているのは、この探求心と、想像力と、創造力なのかもしれません。
余談ですが、観察することというのは、すなわち心をこめるということだと私は思っています。心をこめて仕事をしなさい、と言うのは簡単ですが、では実際にどうやればよいのかよくわかりません。そこでヒントになるのがよく観察して見えてくるものを頼りにすることです。よく冷静に観察すれば、必ず何か見えてきます。すると、自分が次にどう行動すればよいか、考えることができます。ただしそこに必要な心構えは、相手のこれからを祈り励ますこと。自分色のメガネのレンズで見るのではなく、相手がよりよい状態になることを切に願い励ます気持ちで観察することが大切です。まさにそれが愛のある対応。愛のあるレンズを通して観察することが、心をこめるということです。
さて、私は一体そばを愛しているのだろうか?この問いに対する答えは、結局のところ、どうなのでしょうね。
人の暮らしの多様性も、人に備わった探求心や想像力や想像力も、愛すべきものたちです。人間ひとりひとりが生きるうえで、大切にしなければならないものたちばかりです。それが現れるのが、そば、ということは、やっぱりこのそばも愛すべきものと言ってよいと私は思います。そばと出会い、向き合ってきたからこそ、私はこのように生きて来られました。これからもそばとともに生きたい。こう思っている私は、やはり、そばを愛していると思います。
たった1粒から、小さならせん状の芽を出し、ぐんぐん伸びて白い花を咲かせ、およそ30粒くらい実をつけて、次の世代へバトンを渡す、そば。その姿や存在そのものも愛おしいです。みなさんにこの愛らしいそばをもっとお伝えしていきたいと思います。
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「そば愛」は、実は、別の愛だった?
私はそばガレットとスイーツの店をしており、日々そば粉やそばの実やそば商品をあつかいます。そのため、「あなたはそばを愛していますね」と言っていただく機会が多くあります。今日はこの「そば愛」について、お話させていただこうと思います。
はたして、私は、そばを愛しているのだろうか。
前回書かせていただきましたお話(「“愛のある対応”とは」)の文脈でいくと、「愛する」というのは「相手のこれからを祈り励ます行動」です。それでは、私はそばを愛しているかというと、これからのそばのあつかわれ方が多方面にわたって拡がり深まることを願って日々動いており、それがきっと大切なことと信じていますので、合致していると言えます。でも、どことなく身勝手な感じもしますよね。もしそばに心があるならば、それってしげぞーさんの勝手なおせっかいよ、と聞こえてきそうです。そばを愛しているのか、その向こうの何かほかのものを愛しているのか。やっぱり私はそばを愛していないのでしょうか?
そばにはまだあまり知られていない魅力があります。それは、ひとつは、世界中で食べられている食材だということです。
そばと聞くと、日本にいるみなさんがすぐ思い浮かべるのが麺の蕎麦です。麺の蕎麦にはおいしさはもちろんのこと、無数の人の手と時間によって積み重ねられてきた歴史や文化があり、奥深くとても魅力的です。でも、一方で世界に目を向けると、麺にして食べる地域はむしろ少なく、焼いたり練ったりする方が多いのです。同じそばという1つの食材に対してのアプローチの違いですが、さまざまなそば食品があるのは、さまざまな土地で育ったそばがそこの風土や文化に合った形で加工され人々に食べられ続けているということです。
私はむしろ、この、多様性に惹かれている?人の暮らしの多様性。その現れとしての、そば。私の愛しているのは、さまざまなそば食品の向こうにある人の暮らしの多様性なのかもしれません。
またそばは別の魅力もあります。そば粉の性質についてです。同じそば粉でも、産地や品種や挽き方でまったく異なった表情を見せます。麺の蕎麦の研究の蓄積は、情熱ある街場の蕎麦屋さんにも学問界にも相当のものがあります。みなさん蕎麦が大好きだから研究熱心なのです。ですが、焼いたそばに関しては見つからない。
そば粉を焼くと、独特の香ばしさが生まれます。野趣あふれる良い香りです。また、ともに出てくるほろ苦さは、あ~また食べたい、という繰り返したくなる要因となるものです。私は、おいしさの素となるこの香ばしさやほろ苦さがどのようにしたら適切に安定して出てくるのかを、日々そばガレットを焼きながら観察してきました。
よく観察すると、傾向が見えてきます。すると仮説が立てられる。仮説が立てば、検証ができます。いつもこうしているとこうなるが、例えばこうするとどう変化するのだろうか。仮説を疑い、出てきた結果を見て、やはり仮説のとおりだった、あるいは違っていた。では次にはこうしてみたら再現できるのだろうか、等々。
この、PDCAサイクルといってもいいような、トライアンドエラーといってもいいような、おいしさを目指して取り組むこの観察と発見の繰り返しが、ワクワクの連続でとてもおもしろいのです。
すると、私は、この観察や発見のプロセスに関心があり、実はたまたまそれがそばだったのかもしれない?探求し、想像し創造すること。私の愛しているのは、この探求心と、想像力と、創造力なのかもしれません。
余談ですが、観察することというのは、すなわち心をこめるということだと私は思っています。心をこめて仕事をしなさい、と言うのは簡単ですが、では実際にどうやればよいのかよくわかりません。そこでヒントになるのがよく観察して見えてくるものを頼りにすることです。よく冷静に観察すれば、必ず何か見えてきます。すると、自分が次にどう行動すればよいか、考えることができます。ただしそこに必要な心構えは、相手のこれからを祈り励ますこと。自分色のメガネのレンズで見るのではなく、相手がよりよい状態になることを切に願い励ます気持ちで観察することが大切です。まさにそれが愛のある対応。愛のあるレンズを通して観察することが、心をこめるということです。
さて、私は一体そばを愛しているのだろうか?この問いに対する答えは、結局のところ、どうなのでしょうね。
人の暮らしの多様性も、人に備わった探求心や想像力や想像力も、愛すべきものたちです。人間ひとりひとりが生きるうえで、大切にしなければならないものたちばかりです。それが現れるのが、そば、ということは、やっぱりこのそばも愛すべきものと言ってよいと私は思います。そばと出会い、向き合ってきたからこそ、私はこのように生きて来られました。これからもそばとともに生きたい。こう思っている私は、やはり、そばを愛していると思います。
たった1粒から、小さならせん状の芽を出し、ぐんぐん伸びて白い花を咲かせ、およそ30粒くらい実をつけて、次の世代へバトンを渡す、そば。その姿や存在そのものも愛おしいです。みなさんにこの愛らしいそばをもっとお伝えしていきたいと思います。